私は座った状態だと両腕を持ち上げられない。
半年前までは右腕は震えながらも顔のあたりまで上げられたのだが、先に進行した左をかばって使いすぎたのだろうか?
今では右も全く使い物にならない。
悲しいが受け入れざるを得ないこの身体のせいで、大小いくつもの困難にぶち当たり、そのたびに戦っている。
そう、今日も。
デイの職員さんはあいにくお風呂の準備で手がふさがっている。
おそらく呼べば来てくれるが、作業を中断してもらう程のことではない。
これは自分との戦いなのだ。
と、カッコつけて言ってみたが、原因を作ったのは他ならぬ私だ。
なぜ我慢しなかったのだろう。
ほんの数分前の自分の想像力のない行為が悔やまれる。
“もう どのくらい たったのかしら?”
ヨシタケシンスケさんの絵本、『もうぬげない』の冒頭のセリフが頭をよぎる。
脱ごうとした服が頭につっかえて脱げない少年のストーリー。
うん、うん、わかる。
上手くいきそうでいかないんだよね。
これほど絵本の主人公に共感したことはない。
いや、私はそんなに時間たってない。
そしてやらかしたことが逆だ。
脱げないんじゃなくて
ずり落ちてんの。
マスクが。
大きなあくびをしたらね。
鼻がこんにちはーって。
大したことない。
うん、でも気になるよね。
マスクのワイヤーが鼻の下に絶妙にフィットしてるし、蛇腹が口に触れて食べちゃいそうだし、コロナご時世だし。
なぜあくびをしてしまったのか。
いや、生理現象だからそれは100歩譲ったとして、もう少し控え目におしとやかにすれば。
いやいや、もっとフィットするマスクをすれば。
違う。
そもそも私にはワイヤーが引っ掛かる鼻がない。
鼻が低いよお母さーーーん!!
こうなったら自力で直すしかない。
手は上がらないから…口か。
「あ」の口、「い」の口、「う」の口、「え」、「おおおおおー」!
…駄目か。
じゃあ表情筋。
舌が動かしにくいから顔いっぱい使って喋るようになり、そのせいか全く衰え知らずのこの表情筋ならば!
頬をグイッとグイッとー…
なんか一人でニヤニヤしているだけのようだ。
心なしか他の利用者の視線が痛い。
そして直る気配もない。
あっ!
あくびで下がったなら、あくびの逆の動きをすれば良いんじゃない?
これ天才だわ。
こうかな、よいしょっと。
………やらなきゃ良かった………
絵本と同じ流れだよ。
事態がより悪化したよ。
もはやマスクを咥えて禰豆子に近いよ。
ならば顎だ、しゃくれてみるのだ。
私は猪木。
そうだ私は今戦っているのだ。
燃えよ闘魂!
闘魂こーめーてー♪
…いかん、これはジャイアンツ。BGM違う。
猪木は…
ボンバイエ!
猪木!ボンバイエ!私!ボンバイエー!
この道を行けばどうなるものか、できればマスクが戻ってほしい。
迷わず行けよ、行けば分かるさぁ戻れ!
行くぞーーー!!
1、2、3、ダアアアアア!!!
戻った。
こうして今日も私の小さな戦いは勝利で幕を閉じた。
腕がダメなら他がある!
工夫だ、考えるのだ。
「もっちーさーん、お待たせしました、お風呂の順番ですよー。着替えるんでマスク取りますねー」
「………はい」